They lived happily ever after...

花冠の宰相

 ブロークリアとハイベルンの国境にほど近いミュゼフの街。
 その裏通りの娼館に、ここ数日滞在を続ける若い男の姿があった。よほどの富豪と見えて、何人もの娼(おんな)を侍らせ、昼から酒を飲んでいる。
「殿下」
 娼達に囲まれていた青年に、男が声をかけた。
「王女が出立したと知らせが」
「そうか」
 その知らせを待っていたのか、青年は身を起こすと娼達を遠ざけた。
「では、予定通りに始めるとしよう」
 手に持った杯に残った酒をあおると、控えている男に小声で指示をする。男はうなずくと、青年を残して娼館を出た。
 残された男は、手酌で酒を飲みながら、一人、暗い笑みを浮かべていた。

 ブロークリア王女アーデルハイトを乗せた馬車は、ゆっくりと街道を進んでいた。婚礼のための様々な支度品を乗せた馬車がその前後に連なり、さらに王女一行を国境まで送り届ける役目を負った近衛騎兵隊がそれを護衛している。
 国中から愛される王女のためにと、兄王は近衛騎兵隊の主力を道中の警護に差し向けていた。近衛隊は日頃から国王一家の身辺警護を担当することが職務で、隊員はみな王女を幼い頃から知っている。特に、今回王女一行の警護責任者となったレーマン卿は、その厳つい風貌とは裏腹に、幼い王女が最もなついていた遊び相手でもあった。馬車10台と騎兵数十騎が連なる様は物々しささえ感じさせるが、それでも王女を祝福したいと、街道沿いには人々が詰めかけていた。
 馬で駆ければ3日の距離を、一行は10日かけて進んだ。
 アーデルハイトは、もう二度と戻れないかもしれない故国を目に焼き付けるように、ずっと馬車の窓から外を見ていた。
 嫁ぐことがうれしくないはずがない。数えるほどしか会ったことがないとはいえ、婚約者のことを慕わしく思っているのは本当だ。5歳の時に婚約が整って以来、何度も破談の話が出ていたことを知っているから、こうして佳き日が近づくのが素直にうれしいと思う。ブロークリアの王女としても、帝国との強い絆を結べるのはとても喜ばしいことだ。
 けれども、兄とも、生まれ育った国とも別れなければならないことには寂しさを感じてしまう。いつかは来る日だと覚悟していたけれども、やはり寂しいものは寂しいのだ。
 ただの感傷だと、アーデルハイト自身わかっている。
(もしも、フリードリヒ様にではなく、国内の貴族に嫁すのだとしても、こんな風に寂しく思うのかしら)
 そんな風に考えると、この寂しさの原因は祖国を離れることにあるのではなく、兄と別れるというそのことにこそあるように思える。父母亡き後、ギルベルトはアーデルハイトの唯一の肉親だった。
 けれど、これからは違う。
 アーデルハイトはハイベルン帝国の人間となるのだから、ギルベルトともこれまで通りとはいかない。食事をともにすることも、庭を一緒に散策することもない。寂しいけれど、これが嫁ぐということなのだから仕方がない。
(これまではお兄様としてきたことを、フリードリヒ様はご一緒してくださるかしら)
 ほう、とため息をついて婚約者を想う。
 時折は自分を訪れて、ささやかな時間を持ってくれるだろうか。国のための婚姻ではなく、アーデルハイト自身を愛しいと、ほんのかけらでも思ってくれるだろうか。
 王女として、国のために嫁ぐ覚悟はできていても、アーデルハイトもまだ16歳の娘だ。婚礼を前にして、不安がとどまることがない。
 けれども、それを人に気取らせない程度には、アーデルハイトは利口な娘だった。
「そろそろ国境かしらね」
 様々な思案を振り払うように、笑みを浮かべて傍らの乳母に尋ねた。
「さようでございますね。街を出て1刻ほどですから、もう着いてもおかしくない頃でございましょう」
 生まれたときから常にアーデルハイトの側にあった乳母は、王女の婚礼を誰よりも喜ぶ一人だ。アーデルハイトの実母、先のブロークリア王妃が死去してからは真の母のようにこの婚礼を待ち望んできた。王女を送る婚礼行列に是非同行させて欲しいとギルベルトに懇願したのも、我が子のようにかわいがってきたアーデルハイトと別れがたいという感情ゆえに違いなかった。
「国境に着きましたら、ばあやは姫様とはお別れでございますねえ。晴れの日に申し上げることではないのでございますが……やはり寂しゅうございます」
 目を潤ませ、鼻をすする乳母。アーデルハイトとて乳母と別れるのは寂しいが、一緒に泣き出すこともできない。
「しっかりしてちょうだいな。そんなに泣いたら目が溶けるわよ」
「そうは申しましても、姫様……」
 乳母が何事かを言いつのろうとしたとき、かたんと衝撃を残して馬車が止った。こんこん、と扉をたたく音がして、外の護衛兵から声がかかる。
「王女殿下、帝国との国境に到着いたしました。国境警備隊の隊長がご挨拶をと申しております」
「わかりました」
 アーデルハイトはうなずいた。
 これがブロークリア国内での最後の公務となるだろう。帝国側の国境には迎えが来ているはずで、そちらに引き渡された後はアーデルハイトの身分は帝国の皇妃としてのそれになる。
 国境警備隊の挨拶を受けた後は、そのまま帝国側の迎えと面会する。その瞬間から、アーデルハイトはブロークリア王女ではなくなるのだ。
 すがるように見つめる乳母に微笑んで,アーデルハイトは一人馬車を降りた。
 おそらく、乳母とは二度と会えないだろう。アーデルハイトには、もはや優しい彼女がこの先穏やかに過ごせるようにと願うことしかできない。
 その場に控えていた兵士が先導するのに従って国境へと向かう。
 これまでの道中をともにした兵士達が整列し、アーデルハイトの通る道を作っていた。そこを歩きながら、にわかに不安が去来するのを感じる。漠然として形のない、言い表すことのできないほどのかすかなものだ。アーデルハイトはそれをただの感傷だと振り切って、顔を上げた。
 毅然とした態度で隊長の挨拶を受けると、そのまま帝国側へと導かれる。
 アーデルハイトを迎えるために差し向けられたのは、ハイベルン皇帝旗を掲げた皇帝直属の近衛隊だった。
「ブロークリア王女殿下には初めてお目にかかります。私、帝都ヴィスバーデンまで殿下をお送りすることとなりました、ボキューズと申します。殿下をこのようにお迎えできますことは、我が国にとって何よりの喜びでございます。私と私配下の近衛隊が殿下を無事に帝都までお連れするとお約束いたします」
 蛇のような目をした男は、慇懃に腰を折ってそう挨拶した。
「ありがとう、ボキューズ卿」
 かろうじてそのように答えたけれど、アーデルハイトはますます大きくなる不安に押しつぶされそうだった。
 ボキューズという男は、その名前から帝国の西部、かつてナヴァーヌ王国と呼ばれた地方の生まれであろうと察せられた。ナヴァーヌ地方は過去に帝国に併合されたことから、かの地の人々は未だに帝国に良い感情を持っていないことが多いと聞くが、ボキューズは違うのだろうか? 近衛として皇帝の身を守ろうと思うほど、帝国に対して忠誠を抱いているのだろうか?
 そのような場合もあるだろうとは思う。ナヴァーヌの併合はもう200年も前の話だ。
 けれど、アーデルハイトのどこかで警鐘が鳴る。何かがおかしい、油断はするなと。
 帝国は強大ではあるけれども、一枚岩ではない。皇帝に不満を抱くものも多いだろう。アーデルハイトの輿入れによってブロークリアとの同盟が強化されることを望まないものがいることくらい容易に想像できる。そのただ中へたった一人で入っていこうというのだから、アーデルハイトは自らの身を自分で守らなくてはならないのだ。誰を信用して、誰を疑うか。その判断が生死を分けるといっても過言ではない。
 アーデルハイトの直感は、ボキューズを信用してはならないと告げている。けれどもそれをみじんも感じさせない笑顔で、アーデルハイトはボキューズに促されるままに馬車に乗り込んだ。
 たった一人、ハイベルン帝国の皇妃として。

 王女を無事に帝国側に預けたブロークリアからの一行は、安堵と一抹の寂しさを感じていた。
 ブロークリアは小さな国であったから、皆王女を小さな頃から知っている。幼い頃に遊び相手をしたものも少なくはない。
 とうとう嫁いで行かれたか、と複雑な思いを抱きつつ、王女の婚礼に一役果たしたことを誇りにも感じていた。
 あとはこのまま王都ハウゼンへと戻るだけだ。
 くるときは10日かかった道のりだが、帰りはおそらくその半分以下ですむだろう。一刻も早く王都に戻り、妹姫を案じているだろう国王に報告をしなければ。
 まだ名残惜しそうに国境を見つめる兵士達を促そうと、レーマン卿が口を開こうとした時、視界の端に不振な男をとらえた。年の頃は二十代半ば、来ているものは粗末ではないが、衣服も顔もひどく汚れている。
「何者だ!」
 兵士が誰何の声を上げるのと、その青年が名乗りを上げるのとはほぼ同時であった。
 男を取り押さえようとする部下達を押しとどめ、レーマン卿はもう一度青年に問い直した。
「今、なんと言った?」
 男の名乗りが聞き取れなかったわけではない。そうではなく、今このときにはあまりにも信じられない名前を聞いたからだ。
 緊張をはらんで静まりかえったその場に、青年の落ち着いた声が響く。
「私はヴォルタース伯爵ヴィクトールです。訳あってブロークリアの保護を請いたい」
 ヴォルタース伯爵とは、ハイベルン皇帝の信頼も厚い乳兄弟だと、誰でも知っている。
 その彼が、なぜここに。
 いや、そもそも彼は本物のヴォルタース伯爵なのか。
 その場にいた誰もが驚愕の表情を浮かべ、いったいどうするべきかと指揮官の決断を仰いでいる。
 青年はあわてた様子もなく、指輪を抜き取って示した。
「身の証ならここに。ヴォルタース家の印章です」
 近くにいた兵士が差し出された指輪を受け取る。それに刻まれた紋章を確認し、さらにレーマン卿のところへと持ってくる。手渡された指輪には間違いなく、皇帝の側近中の側近ヴォルタース伯爵家の印章が刻まれていた。
 何より、卿はその青年の顔に見覚えがあった。記憶にあるのは今より数段幼い彼の顔だが、その蜂蜜色の髪と深い翡翠色の瞳は忘れようもない。
「確かにヴォルタース伯爵とお見受けいたします。どのような事情がおありかはわかりませんが、ブロークリア王国は御身の安全を保証いたしましょう」
 閣下、と抗議の声が上がる。その声を無視して、レーマン卿はヴィクトールに歩み寄った。
「私は以前伯爵にお目にかかったことがあります」
 覚えておられないでしょうが、と苦笑したレーマン卿に、ヴィクトールは微笑んで首を振った。
「いえ、覚えていますよ。まだ王太子だった頃のブロークリア国王陛下とご一緒に、ハイベルンを訪問された折にお会いしました」
「そうです。10年ほど前のことですが。伯爵は皇帝陛下とギルベルト陛下とご一緒にやんちゃばかりなさっておいでで……おっと、失言でした」
 ヴィクトールの緊張が少しゆるんだのがわかる。レーマン卿が自分のことを確かに覚えていると確認できたからかもしれない。
 ヴィクトールとレーマン卿のやりとりを側で聞いていた兵士達も、国王の知己であるとわかって警戒を解いていた。兵士達は、この青年は自国の王とも親しい間柄で、なぜかわからないが保護を求めているようだ、とほぼ正確に理解した。
「伯爵がお訪ねくだされば、我が王も喜びましょう」
 そういってヴィクトールを馬車の方へと誘おうとした。馬車には同行してきたアーデルハイトの乳母が乗っているが、見たところ騎馬でここまで来た風でもないのだから、同乗するよりほかにないだろうと思われた。しかし、ヴィクトール自身がそれをとどめた。意図がわからず困惑するレーマン卿に、ヴィクトールは申し訳なさそうに頭を下げる。
「……卿、さらなるご迷惑をおかけする事をお許しいただきたい。我々にはギルベルト陛下よりほかにおすがりできる方がいないのです」
 そうしてヴィクトールの示す方向に視線を向けたとき、今度こそレーマン卿は驚愕して動きを止めた。いつの間にか、木々の間に一人の青年が姿を見せていた。
 レーマン卿はその青年の顔にも見覚えがあった。
「…………まさか……ハイベルン皇帝フリードリヒ一世陛下…………?」

 レーマン卿一行が直面している問題など露知らず、アーデルハイトは馬車の旅を続けていた。
 直にハイベルン帝国側の国境の街、ミュゼフに到着すると馬車の外の兵士から知らされた。そこでミュゼフ市長の出迎えを受けることになっている。
 先ほどからなにやら騒がしく笑う声がする。窓からそっと外をうかがうと、騎乗して馬車を護衛している兵士たちが大声で話をしているのが見えた。
 座席にもたれ、小さくため息をつく。
 帝国近衛兵として考えられない行いだ。なぜボキューズ卿は彼らを咎めないのだろうか。ブロークリアの兵士なら、任務中に私語をしようものなら上官にすぐさま叱責されるのに。
 国境で感じた形のない不安が胸の中に渦巻く。
(帝国では違うのかしら。……それとも、何かほかに原因が?)
 不安は募る一方だ。
 馬車は街道を進み、ついにミュゼフの城門をくぐった。
 そのまま街の中を進んで、アーデルハイトの今宵の宿となる市長邸前で止まった。すでに出迎えの用意は整っていたようで、馬車が止まるとすぐに市長が扉を開けた。
「姫君、ようこそミュゼフにお立ち寄りくださいました。わたくし、この街の市長を任されておりますオーケンと申します。どうぞお見知りおきください」
 でっぷりと太った小男だった。
 生理的に好ましい感情を抱く相手ではないが、アーデルハイトは笑顔を崩すことなくその白い手をオーケンにゆだねた。
 すでに皇妃としての公務は始まっている。
 帝国内には数百の市があるが、中でも独立行政市であるミュゼフは特殊な存在だ。皇帝に忠誠を誓い、その支配を受け入れてはいるが、皇帝の臣下ではない。その首長と懇意にしておくことは後々きっと役に立つだろう。ミュゼフ市長が皇妃となったアーデルハイトの後ろ盾についてくれれば、宮廷内でも肩身の狭い思いをすることはない。
 アーデルハイトはオーケンに続いて建物の中へと入った。
 近隣の有力者達なのだろうか、けばけばしいまでに着飾った男達が広間でアーデルハイトを出迎える。屋敷の内部の装飾も、男達の衣装に負けないほど派手だ。壁も柱も至る所が金色に塗られ、時代も作者も統一性のない絵画や骨董品があちこちに置かれている。金がかかっているのはわかるが、品があるとはお世辞にもいえない。
 こういった服装や内装はその持ち主の人格を率直に表す。
(この屋敷をまとめているのがオーケンだとしたら、やはりこの男のことは好きになれそうにない)
 アーデルハイトは心中でこっそりとため息をついた。
「姫君、ご紹介いたします」
 オーケンは卑屈なほどへりくだった声でアーデルハイトの注意を引いた。
「姫君をお迎えになるために、わざわざ都からお越しになったのでございますよ」
 そう言って、オーケンは広間の中央へとアーデルハイトを促す。人垣がそこだけぽっかりと空いた場所には、一人の青年が立っていた。アーデルハイトは促されるままに青年の前へと進む。青年は、にっこりと笑って彼女を迎えた。
「ようこそハイベルン帝国へ。あなたがおいでになるのをずっと待っていたのですよ」
 そうしてアーデルハイトの手を取り、傍らに用意されている椅子へと導く。
 臣下が皇妃に向けるものとしては親しすぎる歓迎を受けて、アーデルハイトは戸惑った。その困惑を見て取ったか、オーケンがあわてて口を挟む。
「姫君、こちらは皇帝陛下でございますよ。姫君のためにおいでくださったのです」
「なんですって?」
 婚約者の出迎えに皇帝自らが出向くなど、前例がないことだ。アーデルハイトは目の前の青年をまじまじと見つめた。漆黒の髪、蒼玉の瞳は確かに伝え聞くとおり、年の頃も二十代半ばで噂と違うところはない。
「では……皇帝フリードリヒ一世陛下でございますか」
 かすれた声で問いかけると、青年はにっこりと微笑んだ。
「ようこそ、婚約者殿。我々はあなたを歓迎するよ」