とすっ
それが、伊吹の横、わずか十センチほどの場所に突き刺さる。
たかが十センチ、されど十センチ。
その狂いは、大きな誤差。
「なに? 憐。まだ手元が狂うような年じゃないだろうに」
わずかに体をかわし、タガーを避けた伊吹が言う。
それを聞いた憐の頭に、カッと血が上る。
「何ぃ?」
憐は、無言で次々とタガーを投げた。
その全てを、伊吹は微笑みすら浮かべながらかわす。
その足取りはあくまでも軽く、優雅に。
何本ものタガーが投げられ、壁に穴があき、幾枚かのガラスにひびが入った。
とすっ、と音を立ててもう何本目かもわからないタガーが壁に刺さった。
(またかわされた…!)
憐はますますムキになり、それでもタガーを放つ手は止まらない。
ただ闇雲に投げるだけではいけないと、頭では分かっていても、どうしても冷静になれない。
どうして?
なぜ伊吹はすべてかわしてしまうんだ!?
早く…もっと早く投げなければ。
伊吹よりも早く。
早く、はやく、ハヤク!
その焦りがますます手元を狂わせるのを、憐は頭のどこかで分かっていたけれども、手を止めることはできなかった。
一方、伊吹も、憐の焦りを敏感に感じ取っていた。
今までの逃げの姿勢から、攻撃の姿勢へと移る。
「もう終わり? じゃこっちからいくよ」
言うなり憐に向かって極細のワイヤーが伸びる。
鋼糸だ。
伊吹はそれを自在に操る。
鋼糸と言う武器を武術に取り入れたのは伊吹だ。
当然、その扱いにおいて伊吹の右に出るものはいない。
憐が伊吹に勝てない理由も、その辺にあった。
その伊吹ご自慢の鋼糸が、憐めがけて襲いかかる。
あまりにも早すぎて、その攻撃は常人の目には捕らえることができない。
「ち…っくしょう!」
どうやら、運動神経の塊、と言われる憐でさえ、見切ってよけるのが精一杯のようだ。
硬く、それでいてしなやかにうねる鋼糸はまるで伊吹の手の一部であるかのように憐に襲い掛かる。
憐は必至によけるが、それでも一筋、ふた筋と細かな赤い線が憐の体に走る。
「うわわわわわっ」
これでは反撃どころではない。
憐はもはや、タガーを握ることすらできない。
鋼糸に阻まれて伊吹に近づくこともできないから、接近戦も不可能だ。
とっとと降参すればいいものを、妙にきまじめな憐は絶対に降参しようとはしない。
もう半ば意地になっているのだ。
その様子をそばで見ていた美作は、ふぅと溜息をついた。
毎朝毎朝、飽きもせず繰り返されるこの騒ぎ。
ばかばかしいと思う一方、憐と伊吹に共感する思いも少なからずある。
それは、かつての美作自身も経験した感情。
またふっと息をついた彼は、自分がトーストを持ったままだったことに気づき、苦笑した。
そしていまだに騒ぎの続く室内を見やり、内装のやり直しの必要性を痛感し、明日からは何があっても外でやってもらおうと固く決意した。
そして、朝食の用意を再開した。
食器は、さりげなく三つに増えていた。
「ちくしょうっ! ちっくしょぉ―――っっ!!」
十分後。
大方の予想通り、今日も伊吹の勝ちということで決着がついた。
「ちぃ…っくしょぉっ!」
悔しがって地べたに座り込んでしまった憐。
「実力の差だね」
ふふん、といやみったらしく笑っても、伊吹はかっこいい。
さらさらの茶髪、パッチリした黒い瞳。
ともすれば女性的に見られかねない容貌だが、武道によって鍛えられた体が、彼の印象を「華奢で繊細な少年」へと押し上げていた。
幼い頃から共に育ってきた憐でさえ、気を抜けば見とれてしまいそうになる。
その憐だって、十分規格外といえる美貌を持っているのだが、本人はまったく気づいていない。
どうしても腕白小僧のイメージが強いせいか、憐が正装すればじつは伊吹にも見劣りしないだけの器量の持ち主であることに気づいているのは、せいぜい美作と伊吹くらいのものだ。
「がぁ――っ、も、くやしいっ!」
がしがしと髪をかきむしりながら、憐は絶叫する。
「明日はぜってー負けねぇからな!」
「はいはい…っと」
「てめ、まじめに聞きやがれ!」
そのまま放っておけばこのまま第二戦に雪崩れ込みそうな雲行きの怪しさに、美作は慌てて止めに入った。
(冗談じゃない、これ以上家を壊されてたまるものですか)
「お、お二人とも、朝食の用意ができていますよ」
言い終わるやいなや、今の今までにらみ合っていた少年たちは、仲良く食卓について朝食に手を伸ばしていた。
この光景も、いつしかすっかりなじみになってしまった。
始めは戸惑っていた美作だったが、最近になってようやく、これが憐と伊吹のコミュニケーションの一巻であるということが理解できた。
大皿に山盛りにされたサラダやスクランブルエッグが、二人によってどんどん片づけられていくのにも、すっかり慣れた。
一旦受け入れてしまうと、それに馴染むのは容易かった。
今は、この二人がかわいくて仕方がない。
だからこそ。
(甘やかすのは、二人のためになりませんね)
にっこり笑って、お仕置きの覚悟を固めるのであった。