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徒労、または報われない愛
 静かな休日の昼下がり。
 カタカタと、キーボードを操る音が眞崎家に響く。
「それじゃ、兄さん、僕でかけてくるから」
 ひょっこりと仕事部屋に顔を出した翔は、白い麻のサマースーツを着て、いかにもかしこまった様子。
 今日は、翔のバイト先で、「交流会」なるものが行われるらしい。
 基本的に弟にとろけるくらいに甘い兄は、弟がバイトしたいと言い出したときもすんなり了承した。
 内容は、どうやら学校の先輩の関係者の勤める事務所のデスクワークサポート、らしい。
 なんだか良くわからないが、「ただの書類整理だよ」とは、愛する弟翔の言葉である。
「ああ。気をつけていっておいで」
「うん」
 キーボードの上に走らせていた指を止め、振り返った龍は、弟の顔に浮かぶ笑みを見て相好を崩した。
 解りやすく言うならば、にへらぁ〜と笑った。
「その顔、やめなよね」
 それを見た翔はいつも顔をしかめるが、どうにも制御できないから仕方ない。
「幸せだなぁ…」
「兄さん」
 呆れたように息を落とすと、翔は首を振った。
「お願いだから外ではやらないで」
 龍は出版社の担当の前でも、平気でしまりのない顔をする。
 常識人を自負する翔にとっては、いささか頭の痛い問題である。
「冷たいぞ……翔……」
 じとり、と視線を向けられて、(仕方ない)と翔は懐柔策に出た。
 兄の弱点ならば、誰よりも良く知っている。
 血は水よりも濃いのである。
 伊達に血が繋がっているわけではない。
「それより、兄さん。僕ちょっとお願いがあるんだけど」
 にっこりと極上の笑みを浮かべて、かすかに小首をかしげたその姿。
 十七歳という年齢を考えれば――男子高校生がかわいらしくしなを作っている姿をご想像いただきたい――寒気が走っても不思議ではないが、可憐とも言うべき翔の容姿は、それを妨げるどころか、いっそう引き立てているほど。
 世の皆々様がそれをみてへらっ、と顔を崩すなら、『世界で一番翔が好き』と公言してはばからない――これも翔の頭痛の種ではある――龍ならそりゃあもう見るも無残なありさまになってしまうのは当然というものである。
 つまりは先ほどの弟のつれない仕打ちを忘れるぐらいには。
 また世の中の『知的でクールな美貌の若手小説家眞崎龍』に憧れている女性方の支持を、一瞬にして灰燼と帰すぐらいには。
「おおおおおおお、お願いっ?」
「うん。今日たぶん帰りが遅いと思うから、カレーでも作っておいてくれないかなぁと思って」
 翔も自分の兄に与える影響を十分承知した上でやっている。
 天使のようなその外見とは裏腹に、このお子様はなかなか侮れないのである。
「いいぞ! このお兄ちゃんにどーんと任せなさい!」
「ありがとう、兄さん」
 翔は、とどめとばかりにっこり微笑んだ。
 効果覿面、である。
 龍は先ほどの翔の言葉などすっかり忘れ、夢見ごこち。
「材料は切って冷蔵庫に入れてあるから」
「わかった」
 すっかりさっきの不穏な気配が消えたことにほっとして――そんなかわいらしい態度はおくびにも出さないが――翔はご機嫌で出かけていった。



「さて、と」
 最愛の弟の『お願い』に負けてパソコンの電源を落とした龍は、ほぼ一年半ぶりにキッチンに立った。
 翔を引き取って以来、これまた翔の『お願い』によって家事の殆どを翔がこなすようになっていたためである。
 それでも、料理する弟を見ていたから器具や食器の位置はわかるし、それは一年半前と大して変わっていないと思われる。
 要するに、龍が夕食を作るのになんの支障もない、ということだ。
「カレー、材料は冷蔵庫、っと…」
 超大型フリーザーをあけ、ごそごそと庫内をあさる。
 これは翔が引っ越してきて始めての締め切り開けに、翔に『お願い』されて買ったものだ。
 眞崎家はかなり市街地から離れた場所にあり、食料品の買出しには車が必要不可欠である。
 翔は当時十五歳、当然車もバイクも禁止の年齢である。
 学校も遠いため、一時間半に一本という驚異的な数字の運行回数を誇る公営バスを利用しているのだが、その路線ではスーパーの側を通らない。
 かといって回り道などしようものなら、午後六時には最終便が出てしまうバスに乗り遅れることは必至。
 それでも普段はいい。
 龍の仕事に余裕があり、車を出せるときは良かったのだが、締め切り前ではそうもいかない。
 龍本人は作品に入り込むと食事など気にならなくなるが、さすがに育ち盛りの翔に一週間近い絶食はキツイ。
 買いだめしておこうにも眞崎家備え付けの冷蔵庫は、家に似合わない貧弱さで。
 地獄の一週間を乗り切った翔は、まず何より食料の保管体制を整えることを懇願し、例によって例の如く、弟に甘い兄はその『お願い』を二つ返事で了承したのだ。
「野菜は……これ、だよな。切ってあるって言ってたし」
 ボウルにラップをかけて保存されたじゃがいも、人参、玉葱を発見し、龍は呟いた。
 翔の性格なのか、野菜はどれも几帳面にほぼ同じ大きさに切られている。
「あとはルー……と、これか」
 翔は自家製ブレンドカレー粉を使うこともあるが、普段は市販のカレールーで作ることが多い。
 一度理由を聞いたら手間が掛からないから、だそうだ。
「それから肉は……」
 龍は当たりをつけた場所をがさがさと探る。
「鶏肉、豚肉、牛肉…牛肉だよな、普通」
 白いトレーを手当たり次第に引っ張り出す。
「ミンチ、しゃぶしゃぶ用、焼肉用にステーキ肉……? なんでこんなにあるんだ」
 なぜかそこには、スーパーの生肉売り場もかくやといわんばかりの肉の山。
 近々龍が締め切り前の修羅場に突入するため、翔がせっせと買いためているものだが、とうぜん龍はそんなことは知らない。
 それよりも一体どれを使えばいいのか、そのほうがよほど切羽詰った問題だったからだ。
「ミンチか? まさかステーキ肉ってことはないよな? ……いやでも、切ったら大丈夫だよな……」
 冷凍された牛肉の山を前に、龍はうーむと考え込んだ。
 翔が一体どの肉を使うつもりだったのか、皆目見当もつかない。
 しばらく冷凍庫の扉を開けっ放しにしてかたまっていた龍だが、冷蔵庫がピーピーと泣き出してようやく我に返る。
 最近の冷蔵庫は、一定時間扉を開けたままにしておくと、警告音がなる仕組みになっているらしい。
 とりあえず扉を閉め、再び腕組みをして考え出す。
 考えれば考えるほど深みにはまっていく。
「一体どれを使えばいいんだ……」
 どれでも適当に選んでさっさと作ってしまえばいいと思うかもしれない。
 確かに一般的にはそうだろう。
 だが龍は違う。
 滅多にない弟の『お願い』だからこそ、龍は完璧に、弟の望むものを作るという、ある意味では不必要な使命感に燃えていた。
 買い置きしている食材は翔が献立まで考えて計画的に購入しているものなので――毎日スーパーのチラシをチェックするのが翔の朝一番の仕事である――、弟の苦労を無駄にしないためにも、ここで正しい肉を選択しなければならない。
 まさに究極の選択である――と、龍は思い込んでいる。
 すでに趣旨が違ってきている気がしないでもない。
 ひとしきりうんうんと唸ったあと、龍は突然名案を思いついた。
「そうだ、電話してきいてみよう!」
 家の中に一人きりという状況のためか、思ったことが独り言として口からすべり出ているのに、龍はまったく気付いていない。
 ひとりうんうんと頷くと、弟のアルバイト先に電話をする。
 今日翔の出かけていった交流会というのは、バイトや社員の交流を深めるというだけでなく、夏休みあけに新しく入ったバイトたちの歓迎会の意味も多分にあるらしい。
 場所はバイト先のオフィスだといっていたから、電話をすれば誰かはいるだろう。
 実は番号など暗記してしまっている龍は、ためらうことなく番号をプッシュした。
 だが。
「あれ?」
 コールは続く。
 しかし、何十回鳴らしても誰も出る気配がない。
 ひょっとしたら、会場が変更になったのかもしれない。
 一分以上鳴らし続けて、ようやく受話器を置く。
「マズイ……」
 龍はある事実に気付いて顔色をなくした。
 翔は今時の高校生には珍しく、携帯電話を持っていないのである。
 龍も自宅が仕事場のため、さして持つ必要を感じていなかった。
 ということは、つまり。
 アルバイト先でつかまらなければ、翔が今どこにいるのか、皆目見当もつかないということなのだ。
「どどどどどどどうしよう」
 慌てふためき、ダイニングの広いテーブルの周りをぐるぐるぐるぐると回りだす。
「どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう」



「ただいまぁ」
 上機嫌で戻った翔を待っていたのは。
「すまんっ!」
「に、兄さん?」
 灯りもついていない玄関の土間に、土下座する龍の姿。
「どしたの?」
「すまん、翔。お兄ちゃんは、お兄ちゃんは、お兄ちゃんは……」
 感極まったようにおいおいと泣き伏してしまった龍に、翔は一体何が起こったのやらわからない。
「だから兄さん、何があったのって訊いてるんだけど」
「うん……お兄ちゃんな、お前にせっかく頼まれたのにな、……カレー、出来てないんだよぉぉぉ」
 言うなり、また土間に伏せて豪快に泣き出す龍。
 あれからずっと肉に悩みつづけた挙句、結局何も出来ないまま翔の帰宅時間を迎えてしまったのだ。
 対して、翔はといえば。
「………………………………………………カレー?」
 なんのこと、と書かれた顔。
「兄さん、ひょっとして僕、カレー作ってくれるように頼んだ?」
「ああ! ごめんよ、皆俺が悪い、悪い、何度でも謝るから……」
「………………………………………………」
 記憶にない、と雄弁に語るその表情。
 足元には土下座したままの龍。
「兄さん、別にいいよ。僕兄さんに頼んだの忘れてて、自分で作るつもりで帰ってきたし」
 そう告げられた途端、龍の鳴き声がぴたりとやむ。
「ほ、本当か……?」
「うん」
「お、怒ってない?」
「怒ってない」
「本当に本当?」
「本当に本当に本当に本当」
 うわーん、と今後は嬉し泣きを始めた龍を放って、翔はさっさとキッチンへ向かった。
 なんだかんだいってもう八時を過ぎている。
 さすがに空腹を覚えたのである。



「兄さん、出来たよぉ」
 翔に呼ばれてダイニングに入った龍は、衝撃の余り歩みを止めた。
(な、なんてことだ……)
 翔がニコニコと――なにかいい事でもあったのかと思うほどの上機嫌で――よそっているカレー。
 そこに使われていた肉は、まさかそんなことはあるまいと、龍が真っ先に可能性を除外したものだった。
「座って座って。僕もうおなかすいちゃって」
 微笑みつつ促す翔の手にあるもの。
 そして今、龍の前に置かれているもの。
 それは。






 シーフードカレー。




(やられたッ!)
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