あるアサシンの夢
「……ね、…かね、あかね、茜っ!」
闇の彼方に沈んでいた意識が、表層めがけて浮上を始める。
原因が、先ほどからしつこいくらいに呼びかけてくる声にあることは、疑いようもなかった。
「茜! いいかげんに起きなさい!」
苛ついたような、声。
このままでは実力行使もありうる、と。
ようやく観念して、茜はむくりと身を起こす。
「耳元で騒がないでよ…」
肌もあらわな薄物一枚に身を包み、けだるげな仕草で長い髪を掻き揚げる茜は美しかったが、あいにくと目の前に居るのは同性、それも姉だった。
「何言ってるのよ! 放っておいたらいつまででも寝てるんだから、あんたは」
言うが早いか、茜の包まっているブランケットを剥ぎ取ってしまう。
今は冬。
だが、部屋の温度はコンピューターが管理しているため、常に最適温度に保たれている。
べつに寒くはない。
「ほら、とっとと服着て。今日は和(かずし)の見送りに行くんでしょ?」
耳に入りはしたが、寝ぼけて回らない頭はとっさに意味を理解できない。
「……そうだった! ねえ、めぐちゃん、かずくんもう行っちゃった?」
「まだ。ご飯食べてるから、今のうちに着替えなさい」
言いたいことだけ言うと、萌(めぐみ)は部屋から出て行く。
茜はクローゼットの前に立つと、かけられている服を物色し始める。
今日は、弟が研究の為に月へ旅立つ日。
一旦研究を始めれば、いつ帰ってこられるかもわからない、ということで、弟を猫かわいがりしている茜には少し辛い。
それでも、優秀な弟は自慢だし、彼が決めたことなら応援してあげたいと思う。
(まだ、行くのが月でよかったかも)
もっと遠くの、たとえば太陽系の外に行く、などということになったら、行くだけで数ヶ月ということも珍しくない。
月なら大体片道二日、遊びにいけない範囲じゃない。
いざとなったらこちらから行けばいいだけのこと。
(ああ、夢だ…)
茜は思う。
(平和な、夢。あのころの……何も知らなかったころの。こんな世界を想像も出来なかったころの夢。かずくんと、めぐちゃんと、三人で暮らしてたころの……)
今となっては、会うことすら出来ない姉と弟。
彼らは、遠い昔に逝ってしまったのだから。
(わたしの、力を。知らなかったころの、ゆめ)
目覚めるにはあまりに惜しい。
まだこの暖かな記憶の中に浸っていたい。
現実でまみえることが二度と叶わぬからこそ、せめて夢で。
けれど。
自分の意識は、浮上しようとしている。
ゆっくりと、しかし確実に。
それも自分の意志ではなく、外部からの強制によって。
意識は急速に覚醒に導かれる。
睡眠装置のスイッチを切ったのは。
「……やあ、お目覚めですか」
「――…最悪」
白い壁、白い調度、白い服。
闇から一転、白に埋め尽くされた視界の中に、モニターの向こうで嗤う男の姿が映る。
それは、茜がこの世で何より嫌うものの一つだった。
「どうして起きぬけにあんたの顔なんか見なくちゃいけないのかしら」
「おやおや、ずいぶんと嫌われたものですね」
くすくすと笑う男は、さして傷ついた様子も見せない。
「好かれていると思っていたの? 思い違いもはなはだしいわ。そういうところは、親とそっくりね。……いいえ、あんたの一族はずっと昔からそのままだった」
精一杯虚勢を張るが、男は堪えた風もない。
「さあ、姫君。お仕事ですよ」
その囁きは悪魔の声にも似て。
「誰を?」
「さる財政界の大物です。あとで資料を回しましょう。あなたはただ、力を振るえばいい」
もう、禁忌に触れている自覚もない。
あるいは、ないのは自覚にともなう恐怖かもしれないけれど。
悪魔に飼われるようになってから、全ての感覚が麻痺してしまった。
(こんな穢れたわたしにも、救いはあるのかしら)
人と違う力。
異質でしかない力の為に、今の茜はある。
永きに渡り、裏社会の暗殺者として、冷凍睡眠カプセルに眠りながら生きた。
己の手は、さぞかし真っ赤に違いない。
(茜…血の色だわ)
くすり、と自嘲の笑みをこぼすと、茜はカプセルから降り立った。
物語は綴られる。
運命の女神の御手の上で。
誰にも、それを止める術はない。